下田の杜と酒井根の歴史
下田の杜は柏市酒井根および東山という地域に位置しています。時々、訪れる方に「酒井根はいつからあったのですか?」と聞かれることがあります。
昔からこの地に人は住んでいたと思われますが、「サカイネ」の名がついたのはおそらく西暦800年ころだと考えられます。この頃、京都から常陸国府(現在の茨城県石岡)に行く道が変更になり、昔の利根川(現在の江戸川)と常陸川と呼ばれていたであろう川(現在の利根川)の「さかいのみね」を通ることになったのです。
ところで、この「さかい」を表す字として、1478年頃までは「境」とか「堺」を使っていました。しかし、この年の12月にあった合戦(のちに酒井根合戦と呼ばれる)で勝った太田道灌が、この地の泉水が酒のように美味なので「さかい」を「酒井」にした、と言われています。太田道灌が本当に言ったかどうかは別として、1500年頃から「酒井根」という字を使うようになったことは間違いないようです。
この名の通り、酒井根の地は水に恵まれた谷津を包んだ地形で人が暮らしやすく、中世から村が続いていました。
その形跡は、村の入り口である八坂神社や、下田の杜周辺の道筋、下田の杜のすぐ南にあり村の中心だった可能性のある「薬師堂」(1420年代頃に建立、四国八十八か所巡りができる)などに今でも残っています。
また、江戸時代初期には酒井根村の周りの原(さかいねが原からこがねが原、そして最後は中原と呼ばれるようになる)は、「小金牧」という江戸幕府の軍馬育成の場所⇒一大農場のさきがけの地になります。
小金牧は、その後東葛全体に広がるようになりますが、酒井根を含むエリアは比較的早い段階(1650~1670年頃)で牧から新田に再開発されたと思われます。この「小金牧」の史跡である数少なくなった野馬土手(自普請の野馬土手)は、下田の杜の屋敷林の一角に残されています。
参考資料:「柏市史 原始・古代・中世」(柏市中央図書館で閲覧可能)など
“葛飾野”(かつしかの) の原風景
「小金に牧があった」と聞いて、これを「武蔵の小金-井」だと思う方もいます。
なるほど、東京都の「武蔵野」には広大な牧野が広がっていたのでそう思うのかもしれません。しかし、「小金牧」があったのは東に広がる平野でした。その平野はかつて “葛飾野” と言われていました。
現在の隅田川にはかつて利根川が流れていましたが、その西岸(上野・東京より西)は「武蔵」と呼ばれ、これは今なお使われる名称となっています。では、その東岸は?というと、現在も「葛飾区」という区名があるように “葛飾” でありました。
この “葛飾” という地名は今の使われ方よりずっと広いエリアを指しており、明治期の郡名では東京(府)に「南葛飾」、埼玉県に「北葛飾」、千葉県に「東葛飾」、茨城県(!?)に「西葛飾」の郡がありました。利根川・荒川の度重なる氾濫で区画は定まりませんでしたが、「葛飾」というのはかつての「クニ」に匹敵する広い場所であったようです。
ちなみに、”葛飾野” が実際に使われていたのは、これはかなり昔の頃からのようです。「万葉集」の「防人の歌」にはすでに「葛飾」の言葉が使われております。同じく防人の歌に複数登場する「筑波嶺の歌垣」に武蔵野から行くには “葛飾野” を通るほかなかったと思われ、当時の人々は心躍る思いでこの “葛飾野” の大地を抜けていったことでしょう。
今、この “葛飾野” は殆ど建物や道路になっていますが、下田の杜に残るわずかな自然風景に囲まれ、いっとき歴史に思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。
参考資料:(船橋市公式HP「地域の歴史と地名」)など